飛行機プラモデル。
帝国陸軍最後の複葉戦闘機である九五式戦闘機は昭和10年3月に試作機が完成、同年末から量産を開始します。さらなる空戦性能向上のため翼幅・胴体を延長した改良型の設計を同時期に開始、後に軍はこれを二型として採用します。二型は12年6月より生産を開始され陸軍戦闘機隊の主力として支那事変・ノモンハン事件を戦いました。活躍期間は短いながら、同時期の諸外国製複葉戦闘機と比べ性能になんら遜色はなく、日本航空機史上における傑作機の一つとなります。
■加藤攻撃戦闘隊所属機について
帝国陸軍最後の複葉戦闘機である九五式戦闘機は後に「加藤隼戦闘隊」の指揮官として勇名を馳せる加藤建夫大尉(当時)も乗機としていました。大尉が率いた飛行第2大隊第1中隊は昭和12年7月の支那事変勃発後間もなく編成され、直ちに中国奉天を経由して前進。洛陽攻撃の直僚や帰徳上空の大空戦などで活躍します。部隊では翌年4月から新鋭機九七式戦闘機の配備が始まりますが、大尉は5月末に内地へ帰還するまで、この九五式二型を愛機としていました。
パイロットフィギュア座像一体、パイロットフィギュア立像一体、整備兵フィギュア一体付属。アクセサリーとして八九式固定機関銃、八九式固定機関銃予備銃身、八九式固定機関銃工具入、銃箱、踏み台、作業台、慰問袋、毛布、落下傘、ドラム缶、バケツ、飛行帽、一升瓶付属。マーキングは日本陸軍加藤建夫大尉機より二種類(スパッツ有、スパッツ無一種類ずつ)。